思考実験・哲学
5人を救うために1人を犠牲にする — 同じ結果なのに、なぜ判断が変わる。哲学が50年戦ってきた問いを、自動運転車が現実の設計課題として突きつけている。
フィリッパ・フットが論文「中絶問題と二重結果原則」で原型を提示。本来は中絶の倫理を論じる題材だった。
同年、英国では中絶法(Abortion Act)が成立。ビートルズ『Sgt. Pepper's』発売、第三次中東戦争、米国でベトナム反戦デモ拡大。
思考実験の代名詞。聞いたことのない人の方が、もしかすると少ない。
通勤電車で、シートが譲られる瞬間を見たことがあるだろう。年配の人が立っている。自分は疲れている。視線が交差する一瞬だけ、頭の中で計算が走る — 自分の疲労と、相手の必要。どちらを優先すべきか、と。
私たちは毎日、この小さな天秤を何度も傾けている。多くの場合、決めきれないまま、気まずさで終わる。
思考実験の中で、おそらく一番耳にしたことがあるのがこの問いだ。5人を救うためにレバーを引くか — 誰もが一度は考え、そして誰もが、自分がどこで躊躇ったかを覚えている。
同じ「5人のために1人を犠牲にする」でも、人の判断は手段に触れたかどうかで劇的に変わる。4段階の場面であなたの線引きをたどり、
1967年、イギリスの哲学者フィリッパ・フットが小さな論文を書いた。本当に論じたかったのは中絶の倫理だった。ところが、その議論の道具として彼女が持ち出した例え話の方が、半世紀にわたって世界を走り続けることになる。話はこんな風に始まる — 暴走したトロッコが、本線の5人に突っ込もうとしている。運転手の手元には、待避線に切り替えるレバーがある。ただし、その先には1人の作業員がいる。どうする?
レバー引けば下の待避線へ
作業員 5人本線・直進ならこちら
作業員 1人待避線・レバーを引けばこちら
古典版(1967)。レバーを引くか、引かないか。多くの人は「引く」を選ぶ。
"Suppose that a judge or magistrate is faced with rioters demanding that a culprit be found for a certain crime […] — or the driver of a runaway tram which he can only steer from one narrow track on to another; five men are working on one track and one man on the other; anyone on the track he enters is bound to be killed."
判事の前で暴徒たちが「犯人を差し出せ」と迫っているとする […] あるいは、暴走トロッコの運転手が片方の狭い線路からもう片方へしか舵を切れないとする。一方の線路では5人が作業しており、もう一方には1人。どちらに入っても、その線路にいる者は必ず死ぬ。
— Philippa Foot, The Problem of Abortion and the Doctrine of the Double Effect (Oxford Review, 1967)
ほとんどの人は、レバーを引く方に傾く。5人が死ぬよりは1人の方がまし、と計算できるからだ。ところが、
あなた
大柄な男体重がトロッコを止める
作業員 5人線路上で作業中
歩道橋版(1985・トムソン)。大柄な男を線路に突き落とせば、その体重がトロッコを止めて5人は助かる。同じ算数のはずが、直感が引っ掛かる。
算盤の上では同じだ。1人と5人を天秤にかける。それなのに、多数の人は「押す」のを拒む。自分の手で突き落とすことの方が、レバーを引くことよりも、何か根本的に違って感じられる。この違和感こそが、思考実験が掘り当てた鉱脈だった。
ここで立ち止まって、自分の手元を意識してほしい。レバーを引ける位置と、歩道橋の上で誰かの背中に手を当てている位置 — 物理的な
オックスフォード大学ソマービル・カレッジで学び、同校のフェローとして長く教鞭をとった英国の哲学者。祖父はアメリカ大統領グロバー・クリーヴランド。徳倫理学の現代的復興の立役者として知られる。1967年のトロッコの例は「二重結果原則」— 意図した結果と予見された副次効果を区別する古いカトリック道徳神学の議論 — を再検討するための補助装置として提示したもので、彼女自身は「問題」という大仰な名で呼んだことはなかった。
ニューヨーク生まれ、
トロッコ問題は「答え」がある問題。正しい倫理が決まっている。
半世紀たっても哲学者の合意はない。問題が価値を持つのは「なぜ我々の直感が揺れるか」を照らすからで、決着を付けるためではない。
フットが「トロッコ問題」と名付けて提起した。
フットは中絶の議論のついでに出した例。「trolley problem」の名を与えたのは1976年のトムソン。本来の主題は
現実離れした思考実験で、実生活と関係ない。
2016年に
トロッコ問題は半世紀をかけて5つの代表的変奏に枝分かれしてきた。下の図は、それぞれの変奏で暴走するトロッコ(下の四角)と5人(上の丸)の関係に、1人(赤丸)がどう介入するかを記号化したもの。同じ「1対5」のはずが、構造が変わると直感が揺れる。
図: Jonas Kubilius (Wikimedia Commons, CC0) を Qualia パレットに再着色。
これから4つの場面を順に見てもらう。それぞれで、あなたが何を選ぶかを記録する。どこで迷ったか、どこで即答したか。4問を終えたとき、あなたの判断パターンが一つの文字列として現れる。最後に、
「正解」はない。これは採点ではなく、自分の倫理的地図を描くための作業だ。各問のあとに、哲学者と一般回答者の典型的な反応を示す。倫理学の主要な立場 —
同じ「1人の死で5人を救う」でも判断が割れる現象を、哲学者たちは500年以上前から用意していた道具で説明しようとしてきた。中世カトリック神学由来の二重結果原則(Doctrine of Double Effect)だ。
同じ「1対5」でも因果構造が違う。上は死が副産物、下は死が道具。実線=因果、点線=予見のみ。
行為者の意図は「トロッコを待避線に切り替える」こと。その結果として1人が死ぬのは予見された副作用にすぎない。もし待避線に誰もいなければ、それはよりよい結果でしかなく、5人救助という目的はそのまま達成される。つまり、1人の死は目的のための必要条件ではない。
ここでの行為の因果構造はまったく違う。大柄な男の体がトロッコの前に投げ出されて、その重量と質量が列車を止める — つまり彼が死ぬこと自体が救助の必要条件になっている。もし彼が何らかの奇跡で死なずに済んだら、5人は助からない。1人の生命が、他人の命のための手段として使われている。カント倫理学が「人を単なる手段として扱ってはならない」と言うとき、それが禁じたのはまさにこの構造だ。
2001年、プリンストンのジョシュア・グリーンらがScience誌に発表した
同じ「命を天秤にかける」でも、文化圏ごとに軸の重みが違う。5軸での偏好差。Awad et al.(2018)。
フットが1967年に紙の上で走らせた小さなトロッコは、2020年代になって物理的な車両として道路を走り始めた。自動運転車の制御プログラムは、衝突を回避できないとき誰を優先するかを実装レベルで選ばなければならない。歩行者か、搭乗者か。子どもか、高齢者か。法を守っていた人か、横断していた人か。哲学者たちが半世紀議論してきた問いが、エンジニアリングの仕様書に載った。
"An intuition pump is a thought experiment...designed to provoke an intuition that demands analysis."
「直観ポンプ — つまり思考実験は、分析を要するような直観を呼び起こすために設計された装置である。」
— Daniel Dennett, Intuition Pumps and Other Tools for Thinking (2013)
MITのデータが示したのは、文化圏によってハンドルの切り方が違うという事実だった。Southern クラスターの国々は女性と若者を守る傾向が強く、Eastern (日本含む) は年長者・法遵守者・歩行者の保護を重んじる。とりわけ日本は、世界233カ国のなかで歩行者保護の選好がもっとも強かった。一方 Western は多数の命を救うことに強く傾くが、歩行者保護では相対的に弱い。これは単なる好みの違いではなく、どの社会で自動運転車を売るかによって、倫理の実装が変わりうるということでもある。設計者は自覚するしないにかかわらず、線を引いている。
作品への登場
The Good Place シーズン2 第6話「The Trolley Problem」(2017)
道徳哲学の教授チディが思考実験を講義する場面から、マイケルがチディを本物のトロッコに乗せた実体シミュレーションに放り込む。哲学の抽象性と実践の生々しさの落差を、ブラックコメディとして鋭利に描いた名作回。2018年のヒューゴ賞(短編ドラマ部門)受賞。
Orange Is the New Black / Unbreakable Kimmy Schmidt
物語の中で登場人物が道徳的ジレンマに直面する際の参照点として、トロッコ問題が繰り返し言及される。英語圏の一般教養化の証左。
トロッコ問題ミーム(2015年以降)
TwitterやRedditで「複数人 vs 1人のスケーター犬」「本線の列車 vs 待避線のラザニア」など、無限のパロディが生まれ続けている。元ネタを知らない人の方が少ないというインターネット文化に到達した。
The Problem of Abortion and the Doctrine of the Double Effect
トロッコの原型が登場する論文。主題はあくまで中絶と二重結果原則の検討で、トロッコはその例解のひとつだった。
歩道橋・移植医・ループ線路などの変奏を整備した決定版。以降、英米の道徳哲学における標準参照点となった。
233カ国・4,000万票のデータから、道徳的優先順位に文化的クラスターが存在することを実証した大規模研究。本記事の定量データの主要ソース。
An fMRI Investigation of Emotional Engagement in Moral Judgment
個人的・非個人的な道徳的ジレンマで脳の活性化領域が異なることを示した先駆的研究。道徳心理学に実験神経科学が本格介入する契機。
Philippa Foot (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
フット思想の一次資料に最も近い解説。徳倫理学復興への寄与、トロッコ例の位置づけなどを整理した権威的エントリ。
Would You Kill the Fat Man?(邦訳:太った男を殺しますか? — 「トロリー問題」が教えてくれること)
トロッコ問題の哲学史と現代倫理学への波及をジャーナリスティックに辿る決定版。Foot/Thomson/Greene の文脈をそのまま継承する。