数学・論理
白なら右に曲がり、黒なら左に曲がる。たったそれだけの指示を与えられた「アリ」が、約1万歩の混沌のあとに、突如として規則正しい道を歩き始める。なぜそうなるのかは、まだ誰にもわからない。
クリストファー・ラングトンがミシガン大学の大学院生時代に考案。論文「Studying Artificial Life with Cellular Automata」で発表。
同年、チェルノブイリ原発事故が起き、スペースシャトル・チャレンジャーが打ち上げ73秒後に爆発。ソ連はミール宇宙ステーションの打ち上げに成功した。
分類: セルオートマトン、チューリング完全な2次元システム。2000年にガハルドらが任意のブール回路を計算できることを証明した。
子どものころ、砂場で山を作ったことはないだろうか。手のひらで砂をすくって、てっぺんにそっと載せる。小さな斜面がぱらぱらと崩れては止まり、崩れては止まる。何度やっても同じことの繰り返し。ところがある一瞬、同じように砂を載せただけで、山の片側がざあっと一気に崩れ落ちる。さっきまでと何が違ったのか。たぶん、あなたにはわからなかっただろう。
こういう「突然の変化」は、身の回りにいくつもある。鍋の水がある温度を超えた瞬間に一斉に沸き立つ。鳥の群れがまるで一つの生き物のように同時に向きを変える。交通渋滞がどこからともなく生まれる。同じルールが同じように働き続けているだけなのに、あるとき全体の振る舞いがまるごと変わる。
この記事で紹介するのは、そうした「突然の秩序」が起きる最も単純な事例の一つである。ルールは2つしかない。
たった2つのルールに従うだけの「アリ」が、混沌から秩序を自力で生み出す。そのシミュレーションを自分の目で確かめ、単純さと複雑さの境界に触れる記事。
1970年代のアメリカ。ベトナム戦争の良心的兵役拒否者良心的兵役拒否者
宗教的・倫理的信条に基づいて兵役を拒否する者。アメリカでは代替任務(民間サービス)への従事が認められていた。だった若者が、ある病院で死体運搬の仕事をしていた。地下室から遺体を台車に載せ、市の遺体安置所まで運ぶ。毎日、毎日。やがて彼は上司に「他にできる仕事はないか」と尋ねた。上司の答えはこうだ。「コンピューターのプログラミングはできるか?」。できるとも、と彼は答えた。嘘だった。
その若者の名はクリストファー・ラングトン。死体運搬から逃れた彼は、大学のコンピューター室で夜勤をしながら独学でプログラミングを覚えた。退屈な夜、メインフレームの空き画面でジョン・コンウェイJohn Conway (1937–2020)
英国の数学者。1970年に「ライフゲーム」を考案し、セルオートマトン研究の基礎を築いた。の「ライフゲーム」を走らせているうちに、ラングトンはある直感に取り憑かれた。生命の本質は物質にあるのではなく、情報のパターンにあるのではないか。適切なルールさえ与えれば、コンピューターの中にも「生きている」と呼ぶしかないものが現れるのではないか。
Christopher G. Langton
Computer Scientist / 人工生命の父
1948/49年生まれ。ミシガン大学大学院在籍中に「ラングトンのアリ」と「ラングトンのループ」を考案。1987年にロスアラモス国立研究所で初の人工生命ワークショップを主催し、"Artificial Life" という分野名を命名した。のちにサンタフェ研究所で研究を続けたが、1990年代末に学界から退いた。
1986年、ミシガン大学の大学院生になっていたラングトンは、論文「Studying Artificial Life with Cellular Automata」の中で、一匹の仮想的な「アリ」を発表する。白と黒のマス目の上を歩くだけの、極めて単純なプログラムだった。ルールは、たったの2つ。
"At a white square, turn 90° clockwise, flip the color of the square, move forward one unit. At a black square, turn 90° counter-clockwise, flip the color of the square, move forward one unit."
「白いマスにいるとき:右に90°回転し、そのマスを黒にして、1マス前進する。黒いマスにいるとき:左に90°回転し、そのマスを白にして、1マス前進する。」
— Christopher G. Langton, "Studying Artificial Life with Cellular Automata", Physica D, 22 (1986)
ルール① 白いマスにいるとき
現在地
(白マス・上向き)
①右90°回転
②マスを黒に
③1歩前進
ルール② 黒いマスにいるとき
現在地
(黒マス・上向き)
①左90°回転
②マスを白に
③1歩前進
これがすべてだ。アリには記憶がない。自分がどこにいたかも、これまでどう歩いてきたかも知らない。見えるのは「いま自分が立っているマスの色」だけ。それに応じて左か右に曲がり、色を反転させ、1歩進む。それを永遠に繰り返す。
このルールから何が生まれるか。直感的には、ランダムにうろうろするだけのように思える。実際、最初の数千歩はまさにそうだ。アリは脈絡なく歩き回り、黒と白が入り乱れた混沌としたパターンが広がる。ところが——。
混沌とした中央の塊から、右下へ一直線に伸びるハイウェイ。10,000歩を超えた頃、アリは突然このパターンを刻み始める。なぜこうなるのか、40年経った今も数学的な証明はない。(図: 10211who / CC BY-SA 4.0)
✗ よくある誤解
「ラングトンのアリ」は生物のアリの行動をシミュレーションしたものだ。
✓ 実際は
生物のアリとは無関係。格子状のマス目を動く仮想的な「点」で、フェロモンも巣も出てこない。名前は動きの見た目から付けられただけだ。
✗ よくある誤解
ルールが単純だから、動きも単純で予測しやすいはずだ。
✓ 実際は
2つのルールしかないにもかかわらず、動きは約1万歩にわたって混沌を示す。その後に突然秩序が現れる理由は、40年近く経った現在もまだ数学的に証明されていない。
✗ よくある誤解
「混沌のあと秩序が出る」のは、ルールの中に秩序が埋め込まれているからだ。
✓ 実際は
ルール自体はマスの色に応じて左右に曲がるだけで、「直進せよ」や「繰り返せ」といった秩序の指示は一切含まれていない。秩序はルールの外から——相互作用の積み重ねから——自発的に出現する。これが「創発」と呼ばれる現象である。
先ほどの小さなグリッドで、ルールの仕組みは理解できただろう。白なら右、黒なら左。色を反転。前進。だが10歩や20歩では、このルールが何を生み出すかはまだ見えない。ここからは、もっと広い世界でアリを解き放つ。
下のシミュレーターで「開始」を押すと、200×200のグリッド上をアリが歩き始める。最初はでたらめな動きに見えるだろう。そのまま放っておいてほしい。約1万ステップ前後で、何かが変わる。それがいつ起きるかは、事前には教えない。自分の目で気づくことに意味がある。
もし1万歩を超えてもまだ見ていなければ、もう少しだけ待ってほしい。混沌の中から、対角線方向にまっすぐ伸びる「道」が現れるはずだ。それはアリが104歩ごとに同じパターンを繰り返しながら、永遠に直進し続ける構造——「ハイウェイ」と呼ばれる。無限に広いグリッドでは、このハイウェイは二度と途切れない。アリは永遠にまっすぐ歩き続ける。
ただし注意がある。上のシミュレーターのように端がある有限のグリッドでは、ハイウェイが端に到達したとき、アリは反対側から出てきて自分の古い軌跡にぶつかる。すると秩序は崩れ、再び混沌が始まる。そしてしばらくすると、また別の方向にハイウェイが伸び始める。混沌と秩序のあいだを行き来するこのサイクルも、長く走らせていると観察できるかもしれない。
2つのルールはどこにも「直進せよ」とは言っていない。にもかかわらず、アリは道を作る。
ラングトンのアリの振る舞いは、3つの明確なフェーズに分かれる。それぞれのフェーズで何が起きているかを見てみよう。
3つのフェーズ
最初の数百歩では、アリは小さな対称的なパターンを作りながら動く。すべてのマスが白から始まるため、アリの軌跡は比較的予測しやすく、左右対称の図形が現れる。この段階では「単純なルールから単純な結果が生まれている」ように見え、驚きはない。
数百歩を過ぎると、アリは自分が以前に塗り替えたマスの上を何度も通り始める。黒を白に、白を黒に、繰り返し反転させるうちに、パターンは急速に複雑化し、対称性は崩壊する。混沌のフェーズだ。アリがどこに向かうか、どんな形を描くかを事前に予測する方法は(少なくとも現在は)知られていない。
ところが約10,000歩の混沌を経て、アリは突然、規則的な振る舞いに移行する。104歩を1サイクルとする周期的なパターンを繰り返しながら、対角線方向にまっすぐ進み続ける——「ハイウェイ」の建設だ。1サイクルごとにアリは水平方向に2マス、垂直方向に2マスずれる。無限のグリッドであれば、このパターンは永遠に続く。
なぜ混沌から秩序に移行するのか? これは未解決問題である。テストされたすべての初期配置で最終的にハイウェイが出現することが確認されているが、「任意の初期配置でハイウェイが必ず出現する」ことの数学的証明は存在しない。わかっているのは、アリの軌跡が常に非有界であること(どんな有限領域にも永遠に閉じ込められない)だけだ。これはCohen-Kung定理として知られている。
1970
コンウェイのライフゲーム
英国の数学者ジョン・コンウェイが、生死4ルールのセルオートマトンを考案。単純なルールから自己複製体すら生まれることを示し、若きラングトンに決定的な影響を与えた。
1986
ラングトンのアリ誕生
ラングトンがミシガン大学の論文「Studying Artificial Life with Cellular Automata」で発表。2つのルールだけで混沌から秩序が出現するシステムとして注目される。
1987
人工生命ワークショップ
ラングトンがロスアラモス国立研究所で初の「人工生命(Artificial Life)」ワークショップを主催。この場で分野名そのものが生まれた。
1993
ゲイルの「勤勉なアリ」
数学者デヴィッド・ゲイルが "The Industrious Ant" を Mathematical Intelligencer 誌に発表。アリのハイウェイ現象を広い数学コミュニティに紹介した。
2000
チューリング完全性の証明
チリの研究者ガハルド、モレイラ、ゴレスが、ラングトンのアリの軌跡を使って任意のブール回路を計算できることを証明。この単純なシステムが万能計算機と等価であることが示された。
現在
未解決のまま
「任意の有限初期配置でハイウェイが必ず出現する」というハイウェイ予想は、依然として未証明。多色拡張やターマイト(色つきアリ)など、変種の研究が続いている。
ラングトンのアリが私たちに突きつけるのは、次のような問いだ。秩序はどこから来るのか。
このアリのルールには「10,000歩目から直進せよ」とは書かれていない。「混沌のあとに道を作れ」とも書かれていない。あるのは「白なら右、黒なら左」だけだ。にもかかわらず、アリは約1万歩の混沌のあとにハイウェイを作り始める。秩序はルールの中にはない。ルールとマス目の相互作用の中から、自発的に出現する。
この現象を創発創発(emergence)
個々の構成要素の振る舞いからは予測できない性質が、全体として出現すること。アリの2つのルールからハイウェイが生まれるのは、創発の典型例。と呼ぶ。部分を見ているだけでは全体の振る舞いが予測できない、という問題である。これは数学の中だけの話ではない。1つ1つの水分子は「流体力学」を知らないが、大量に集まると渦を作る。1つ1つのニューロンは「意識」を知らないが、数百億が接続されると何かが起きる。1匹のアリは「道」を知らないが、2つのルールで歩くうちに道が現れる。
もう一つ、このアリが教えてくれることがある。単純さは複雑さの反対ではない。ラングトンのアリはたった2つのルールしか持たないが、それはチューリング完全チューリング完全(Turing complete)
理論的に、あらゆる計算を実行できる能力を持つこと。2000年にガハルドらが、ラングトンのアリの軌跡で任意のブール回路が計算可能であることを証明した。——理論上、どんな計算でもできる万能計算機と同等の能力を持つことが証明されている。単純さの極致が、複雑さの極致に通じている。
イアン・スチュアートとジャック・コーエンは、著書『Figments of Reality』(1997年)の中で、ラングトンのアリを「複雑系の進化における本質的な段階の比喩」として用いた。混沌の中に秩序が自発的に出現する可能性が内在している、と。ラングトン自身は1990年代の末に学界を去り、以後研究を発表していない。しかし彼の「アリ」は今も走り続けている。解かれていない問題を一つ残して。
『Complexity — 科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち』(1993)
M. ミッチェル・ワルドロップによるノンフィクション。ラングトンの生涯と研究が6章と8章で詳しく描かれている。死体運搬係からハングライダー事故による大怪我、そして人工生命研究への没入までを追った人物像は、科学ノンフィクションの中でも異色。
『Figments of Reality — The Evolution of the Curious Mind』(1997)
数学者イアン・スチュアートと生物学者ジャック・コーエンの共著。第3章「Ant Country」でラングトンのアリを取り上げ、「単純さと複雑さの関係を開く鍵」として論じた。彼らはこの現象を "simplexity"(単純さから複雑さが生まれること)と呼んだ。
最初の200歩。アリ(赤)はルール通りに右・左を繰り返すだけだが、すでに単純な形を描いている。この先、いつ混沌に変わり、いつハイウェイを引き始めるのか——実際に自分の手で動かして見届けたければ、上のシミュレーターで確かめてほしい。
Studying Artificial Life with Cellular Automata
ラングトンのアリが初めて発表された論文。Physica D, 22 掲載。人工生命という分野の出発点でもある。
ラングトンのアリの軌跡で任意のブール回路が計算可能であること(チューリング完全性)を証明した論文。Discrete Applied Mathematics, 117 掲載。
Complexity: The Emerging Science at the Edge of Order and Chaos
サンタフェ研究所を舞台にしたノンフィクション。ラングトンの人生と研究が詳しく描かれている。邦訳『複雑系』。
Figments of Reality: The Evolution of the Curious Mind
第3章「Ant Country」でラングトンのアリを「単純さと複雑さの関係を開く比喩」として使用。simplexity(シンプレキシティ)という概念を提唱。
ラングトンのアリのハイウェイ現象を広い数学コミュニティに紹介した解説記事。続編 "Further Ant-ics"(1994)も。