Qualia Journal
知覚・錯覚
ピタゴラスの弦、中国の竹管、バッハの鍵盤。2500年かけて人類がたどり着いた答えは「完璧な音律は存在しない」だった。
明代の王族・朱載堉が十二平均律の精密な数学的解法を世界で初めて発表。
同年の世界:オラニエ公ウィレム1世暗殺。エリザベス女王がローリーにヴァージニア植民特許状を交付。
同時期のヨーロッパでは、ガリレオの父ヴィンチェンツォ・ガリレイがリュートの平均律を独自に提唱。東西の数学者がほぼ同時に同じ答えにたどり着いた。
ピアノの前に座って、白と黒の鍵盤をドから順に弾いていく。12個目を過ぎたところで、最初の「ド」がもう一度聞こえる。高い「ド」。同じ音なのに、明らかに違う。でも、確かに同じだ。
なぜ13でも10でもなく12なのか。ギターのフレットも、木琴の板も、スマホの着信音も、すべて同じ12音に従っている。この数字は空気のように日常に溶けている。
12音は自然が決めた数ではない。人類が2500年かけてたどり着いた、数学的な妥協の産物である。
この記事では、空気の振動にすぎない「音」に人間がどうやって12個の名前をつけたのかを追う。弦を半分に切るところから出発し、12に至る数学を図で理解し、異なる調律の響きを耳と目で確かめ、「なぜカラオケでキー変更ができるのか」を体験する。
この記事は音律の話だが、その前にひとつだけ確認しておきたい。音の正体は空気の振動だ。何かが震えると、周囲の空気が押されて密になり、その密の波が広がっていく。スピーカーの膜が前後に動く、ギターの弦が揺れる、声帯が震える——どれも空気に密度の波(疎密波)を作り出す行為だ。
スピーカーの膜が前後に動くと、空気の分子が「密」と「疎」の繰り返しパターンを作る。これが音の正体——疎密波だ。
ここで色の話と比較すると面白い。光は電磁波であり、空気がなくても真空中を伝わる。一方、音は空気(あるいは水や金属などの媒質)の振動であり、真空では伝わらない。宇宙空間は無音だ。光の場合、特定の波長を人間の脳が「赤」や「青」と解釈する。音の場合は、特定の振動数(周波数)を脳が「高い」「低い」と解釈する。どちらも物理的な波に、人間が名前を貼っているという構造は同じだ。
そして重要なのは、音は連続的だということ。440Hzと441Hzのあいだにも、440.1Hz、440.01Hzと、無限に音が存在する。ピアノの鍵盤には12個の区切りしかないが、その「区切り」は自然が定めたものではなく、人間が便宜上決めたものだ。無限に広がる周波数の地図の上に、人類が12本のピンを刺した——この記事は、その12本のピンがなぜそこに刺されたかの話である。
周波数は連続的なグラデーション。ピアノの12音(●)は、この連続体から人間が選んだ12の点にすぎない。赤=白鍵、薄色=黒鍵。
音の呼び方は国によって違う。日本の授業では「ドレミ」、英米では「CDE」、日本の伝統では「ハニホ」。すべて同じ7つの音を指している。この記事では英語式のC, D, E…を主に使う。迷ったら下の表に戻ってきてほしい。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | (1に戻る) | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 英語式 | C | D | E | F | G | A | B | C |
| イタリア式(ドレミ) | ド | レ | ミ | ファ | ソ | ラ | シ | ド |
| 日本式 | ハ | ニ | ホ | ヘ | ト | イ | ロ | ハ |
これは白い鍵盤だけの7音。このあいだに5つの黒鍵(♯/♭がつく音)が挟まり、白7+黒5=合計12個で1オクターヴになる。「オクターヴ」とは低いドから次の高いドまでの距離、つまり「同じ音名に一巡する」幅のことだ。
紀元前6世紀のエーゲ海沿岸。ピタゴラスピタゴラス(紀元前570頃–495頃)
古代ギリシャの数学者・哲学者。三平方の定理で有名だが、音と数の関係を体系的に研究した最初の人物。は一本の弦を使って音の秘密を探っていた。
弦を半分にすると1オクターヴ上。弦を3分の2にすると「ソ」——この音程を完全五度と呼ぶ。ド・レ・ミ・ファ・ソで5番目だから「五度」。なぜこれが重要か? オクターヴ(2:1)の次に単純な整数比(3:2)であり、人の耳が最も安定した響きとして認識する音程だからだ。
ここで音程の「ものさし」を紹介する。この先よく出てくる「セント」という単位だ。1オクターヴ=1200セントと決めたもので、現代の平均律では半音がちょうど100セントにあたる。「23セントのずれ」と出てきたら、半音の約4分の1で、はっきり聞こえるレベルの差だと思ってほしい(人の耳は約5セント以上の差を聞き分けられる)。
さて、ピタゴラスは完全五度を繰り返し積んで、1オクターヴのすべての音を作ろうとした。C→G→D→A→E→B→F♯→C♯→G♯→E♭→B♭→F→C。12回で出発点にほぼ戻る——が、ぴったりではない。
五度圏(Circle of Fifths)。12回の五度でCに戻る…が23.5セント足りない(赤い隙間=ピタゴラスコンマ)。
(3/2)12 ≈ 129.75。7オクターヴは 27 = 128。差が約23.5セント、ピタゴラスコンマピタゴラスコンマ
完全五度を12回重ねたときに生じるオクターヴとのずれ。約23.46セント=半音の約1/4。だ。完全五度を積み重ねてもオクターヴに帰ってこない。この「閉じない円」をどう処理するかが、2500年にわたる音律の歴史の核心になる。
では実際の周波数はどう違うのか。下の表で、平均律(現代のピアノ)を基準にして、ピタゴラス律や純正律とのずれを確認できる。ボタンで比較対象を切り替えてみてほしい。
平均律(現代のピアノ)の各音の周波数を基準に、ピタゴラス律とのずれをセントで表示。
| 音名 | ドレミ | 平均律 (Hz) | ピタゴラス律 (Hz) | 差(セント) |
|---|
✗ よくある誤解
12音は自然法則で決まっている
✓ 実際は
数学的な妥協点。19音や53音もあり得た。ガムランは7音、アラブ音楽は24音
✗ よくある誤解
バッハの「平均律」は現代のピアノと同じ
✓ 実際は
バッハが使ったのは「全調で弾ける」調律で、全半音が均等な現代の平均律とは異なる
「和音を聴き比べる」では同じ「ドミソ」を3つの調律で鳴らす。音と同時に波形が描かれる。波形がなめらか=調和。うねっている=音がぶつかっている(ビート/うなり)。
「ウルフの五度」はルネサンス期の鍵盤奏者が恐れた音。ミーントーンでは多くの和音が美しい代わりに1箇所だけ極端に濁る五度がある。その「狼の遠吠え」を聴いてみよう。
同じ「ドミソ」(C-E-G)を3種の調律で。波形がうねっていれば、音がぶつかっている証拠。
ミーントーン(中全音律)の正常な五度と、「ウルフの五度」を聴き比べる。
「この曲、高すぎるからキーを2つ下げよう」——カラオケのあのボタンを押すと、メロディ全体がそのまま下にスライドする。音と音のあいだの間隔はまったく変わらず、全体が平行移動する。これが可能なのは、平均律ではすべての半音幅が100セントで均等だからだ。
純正律でカラオケを作ったらどうなるか。キーを1つ上げた瞬間に、音と音のあいだの間隔が変わってしまう。メロディの「形」が崩れる。下のシミュレーターで確かめてみよう。
誰もが知っている「きらきら星」(モーツァルト『きらきら星変奏曲』K.265の主題)の冒頭を使う。キーを変えたとき、平均律と純正律でそれぞれ何が起こるかを見て・聴いて確かめてほしい。
「きらきら星」冒頭(ド・ド・ソ・ソ・ラ・ラ・ソー)をキー変更してみよう。上段の平均律では間隔が均等なまま。下段の純正律ではキーを変えると間隔がゆがむ。「両方同時に鳴らす」を押すと、ずれが最も劇的にわかる。キーを+3以上にしてから試してみてほしい。
平均律はすべての音を均等にわずかに不純にする。その代わりに、どの調に移動しても音楽の「形」が崩れない。
— カラオケのキー変更ボタンが機能するのは、この妥協のおかげだ
なぜ11でも13でもなく12か。連分数連分数(Continued Fraction)
無理数を分数の連鎖で近似する手法。「ある無理数にいちばん近い分数はどれか」を体系的に求められる。で log₂(3/2) ≈ 0.585 を近似すると、分母は 2, 5, 12, 41, 53… と並ぶ。5音=ペンタトニック(童謡の音階)、53音=トルコ音楽の理論。12は「精度と実用性のバランスが最も良い」分割数だ。
12が選ばれた3つの理由
12回の五度で7オクターヴにほぼ等しい。ずれは約23セント。5音だと90セント、53音なら0.07セントだが鍵盤53個は非現実的。12は絶妙なバランス。
12=2×2×3。約数が豊富で、2等分・3等分・4等分・6等分が可能。11や13は素数で対称構造が生まれない。全音音階もこの性質に依存する。
紀元前5世紀の中国・曾侯乙墓の65個の青銅編鐘は中央音域で12音をカバー。リュート奏者はフレット間隔から自然に均等配置を導いた。理論より先に手と耳が12を発見していた。
12は精度・対称性・実用性の三拍子がそろった稀有な数字。完璧ではないが「ちょうどいい」。
紀元前6世紀
ピタゴラスの発見
弦の比率と音程の関係を体系化。五度(3:2)は美しいが長三度(81:64)が広く和音が不安定。
紀元前122年
中国『淮南子』にコンマの記録
五度を繰り返してもオクターヴに戻れないこと(ピタゴラスコンマ)が計算された。
1523年
ミーントーンの文献化
三度を美しくするため五度を狭める。代わりにG♯–E♭間にウルフの五度が生じる。
1584年
朱載堉が十二平均律を精密に計算
明代の王族朱載堉朱載堉(1536–1611)
明代の王族・数学者。¹²√2の等比数列で12等分する方法を世界初で精密計算。竹管で実証。がオクターヴを¹²√2で12等分。翌年シモン・ステヴィンが独立に同結論。
1691年
ヴェルクマイスターの良律
全調で演奏可能だが調ごとに色が異なるウェルテンペラメント。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』はこの系譜。
18世紀後半〜
十二平均律がヨーロッパで普及
20世紀に大量生産のギター・電子楽器が平均律を既定値とし世界標準に。
1939年
A=440Hzが国際標準に
ロンドン会議で採択。基準音の標準化+平均律が現代の「12音体制」を確立。
12音は妥協の産物だ。五度を追えばオクターヴが閉じない。三度を美しくすれば特定の調が使えない。全調を平等にすれば全和音がわずかに不純になる。十二平均律は犠牲を12音に均等配分した——どの音も平等にわずかに「間違っている」民主主義だ。
だがこの「平等な不完全さ」のおかげで、バッハは全24調で前奏曲とフーガを書け、ジャズは自由に転調でき、カラオケのキー変更が機能する。制約が表現を生み、妥協が自由を拡張した。
面白いのは正解がないこと。今も古楽演奏家はミーントーンに立ち返り、電子音楽では19音律や31音律が使われている。12は唯一の答えではなく「もっとも多くの人が納得した妥協」にすぎない。あの白と黒の整然とした鍵盤は、完璧に見えて完璧ではない。そして完璧ではないからこそ、あらゆる音楽がそこから生まれることができた。
J.S.バッハ『平均律クラヴィーア曲集』(1722/1742)
24のすべての調で前奏曲とフーガを書いた記念碑的作品。全調演奏可能な調律の恩恵を最大限に引き出した。
Ross W. Duffin『How Equal Temperament Ruined Harmony』(2007)
十二平均律が音楽から多様性を奪ったと論じた一般向けの好著。
マイケル・ハリソン『Revelation』(2007)
純正律に調律し直したピアノの作品集。12鍵はそのまま、調律を変えるだけで響きが根本的に変わる。
Tuning and Temperament: A Historical Survey
音律の歴史に関する古典的参考文献。
How Equal Temperament Ruined Harmony
平均律批判の好著。
Fine-Tuning a Global History of Music Theory
朱載堉の理論を再検討した近年の論文。