Special Report
脳も神経も持たない黄色いアメーバが、迷路を解き、鉄道網を設計し、学習する。知性の定義を問い直す、粘菌の静かな革命。
中垣俊之ら、粘菌が迷路の最短経路を見つけることをNature誌に発表
同年、シドニーオリンピック開催。ヒトゲノム計画の草案が発表され、人類は自らの設計図を読み始めた年でもある。
Physarum polycephalum — 和名「モジホコリ」。変形菌の一種で、複数の核を持つ巨大な単細胞生物。森の朽木の裏で黄色い網目を広げて暮らしている。
駅前の地図を見ながら目的地へのルートを考えたことがあるだろう。どの道を通れば最短か、どこで曲がれば近道になるか。頭の中で選択肢を比較して、ひとつを選ぶ。ごく普通のことだ。
けれど「どの道がいちばん短いか」を考えるには、全体の地図を把握し、距離を比較し、記憶と照合する必要がある。それは脳が得意とする仕事で、だから私たちは当然のように、知的な判断には脳が必要だと思っている。
脳を持たない生物が、同じことをやってのける。しかも迷路で。しかも最短経路で。
脳のない単細胞生物がどのように「最適解」に辿り着くのか。そのメカニズムに触れ、知性に脳が必要かどうかという問いに向き合う記事。
森を歩いていて、朽ちた丸太の裏に鮮やかな黄色い網目を見つけたことがある人もいるだろう。潰れたマカロニチーズのような、あるいはマスタードを垂らしたような姿。それがモジホコリモジホコリ(Physarum polycephalum)
変形菌の一種。数百万の核を持つが、細胞膜は1つだけの巨大単細胞生物。ラテン語で「多頭」を意味する名前を持つ。——学名 Physarum polycephalum——という生物だ。
粘菌は動物でも植物でもない。菌類ですらない。かつてはキノコの仲間と誤解されていたが、現在は原生生物原生生物(プロティスト)
動物・植物・菌類のどれにも分類しにくい真核生物の総称。アメーバ、ゾウリムシなどが含まれる。「よくわからないものの寄せ集め」とも言われる。に分類されている。体は1つの巨大な細胞でできており、その中に何百万もの核が詰まっている。壁のない部屋がいくつも繋がったワンルームのような構造だ。
粘菌は脳も神経も持たない。管状ネットワークの中を流れる原形質が、情報を伝達する唯一の手段である。
この生物がなぜ科学者の注目を集めたのか。それは2000年、北海道大学の中垣俊之中垣俊之(なかがき・としゆき)
1963年生まれの生物学者。北海道大学電子科学研究所。粘菌の行動知性の研究で、2008年と2010年にイグノーベル賞を2度受賞した。らが、Nature誌にわずか1ページの論文を発表したことに始まる。
"Here we show that this simple organism has the ability to find the minimum-length solution between two points in a labyrinth."
この単純な生物が、迷路の2点間の最短経路を見つける能力を持つことを示す。
— Nakagaki, Yamada & Tóth『Nature』407号(2000年)
実験は驚くほど単純だった。4cm四方のプラスチック製の迷路に粘菌を広げ、入口と出口にオートミールの塊——粘菌の好物——を置く。8時間後、粘菌は行き止まりの通路から撤退し、2つの餌を結ぶ最短ルートだけに管を太く残した。19回の試行中、17回で成功した。
迷路の壁の間から枝分かれしながら進む Physarum polycephalum。中垣らが2000年に Nature に発表した実験は、これと同じ構造の4cm四方の迷路で行われた(撮影: Tim Tim (VD fr), CC BY-SA 4.0)
✗ よくある誤解
粘菌はカビの仲間で、不潔な環境に生える
✓ 実際は
カビとは全く異なる生物。自ら移動して餌を探すアメーバ状の原生生物で、森林の落ち葉や朽木に暮らしている
✗ よくある誤解
「知性」と言われているが、実際はただの化学反応では
✓ 実際は
化学反応には違いない。だが人間の脳も化学反応で動いている。問題は「何が知性か」の定義であり、粘菌はその境界線を問い直す存在になっている
✗ よくある誤解
粘菌は多数の細胞が集まった群体のようなもの
✓ 実際は
Physarum polycephalumは正真正銘の単細胞生物。膜は1つ、中身は繋がっている。核が何百万もあるだけで、細胞としては「1つ」
迷路を解いたというだけなら、「偶然の最適化」と片付けられたかもしれない。だが中垣らのグループは2010年、さらに大きな実験をScience誌に発表した。寒天の上に、首都圏の主要都市の位置にオートミールを配置する。中央の「東京」にあたる位置に粘菌を置き、26時間待った。
粘菌は放射状に広がり、すべての餌を探り当てた後、余分な枝を刈り込みはじめた。栄養の多い管は太くなり、使われない管は細くなって消える。最終的に残ったネットワークの形は、実際のJRの鉄道路線図に驚くほど似ていた。
粘菌はまず全方向に広がり、次に非効率な管を刈り込むことで最適なネットワークを形成する。「設計」ではなく「淘汰」による最適化。
研究チームはこの研究で2010年のイグノーベル賞イグノーベル賞(Ig Nobel Prize)
ハーバード大学で毎年授与される賞。「まず人を笑わせ、そして考えさせる」研究に贈られる。パロディではなく、受賞研究の多くは一流誌に掲載された本物の科学。(交通計画部門)を受賞した。2008年の迷路実験での受賞(認知科学部門)に続く2度目。笑いを誘った後に考えさせる——まさにそういう研究だった。だが、笑った後に残るのは不穏な問いだ。「脳なしで鉄道網の設計に近いものを作れる」のだとしたら、人間の知性とは何なのだろうか。
粘菌が迷路を解くとき、頭の中で地図を描いたりはしない。全方向に同時に伸び、行き止まりに当たったら引き返す。流量の多い管を太くし、流量の少ない管を消す。この単純なルールだけで、最短経路が浮かび上がる。
下のシミュレーターで、この過程を自分のペースで観察してほしい。まず「① 探索開始」で粘菌が全方向に広がり、次に「② 最適化開始」で不要な管が消えていく。2つのフェーズを順番に進めることで、粘菌の「知性」がどこから生まれるかを見届けることができる。
2つの食料源を結ぶ最適経路を、粘菌が見つける過程を観察する。
① 探索フェーズ: 粘菌が全方向に管を伸ばす。②最適化フェーズ: 流量の多い管が太くなり、少ない管が消える。最終的に食料源を結ぶ効率的な経路だけが残る。
「① 探索開始」を押すと、粘菌が広がり始めます
中垣ら(2000)およびTeroら(2007)の管状ダイナミクスモデルを参考にした概念的な可視化。管の太さは流量に比例し、流量ゼロの管は消失するという基本ルールを再現している。実際の粘菌はこのモデルよりはるかに複雑な振動パターンで動く。
見てほしいのは、最短経路を「計算」しているわけではないという点だ。粘菌は全体の地図を持っていない。各管が局所的なルール——「流れが多いなら太くなれ、少ないなら細くなれ」——に従っているだけだ。それなのに、結果としてグローバルな最適解が浮かび上がる。
"The organism relies on proteins and nutrients that swish back and forth through the cell to communicate the location of the food and allow the organism to change shape."
この生物は、細胞内を行き来するタンパク質と栄養素によって餌の位置を伝達し、自らの形を変える。
— Ken Showalter(ウェストバージニア大学), Science誌のコメント
粘菌の「知性」のメカニズムを分解すると、3つの要素に行き着く。どれも単純で、どれも脳を必要としない。
脳なき最適化の3ステップ
粘菌の管の中を、ゲル状の原形質が前後にリズミカルに流れている。約2分周期の振動だ。この流れが栄養素や化学シグナルを全身に運ぶ。脳がない代わりに、この流体ネットワーク全体が一種の「分散型コンピューター」として機能する。
人間の体でいえば血液循環に似ているが、大きな違いがある。心臓のような中央ポンプはなく、管の壁自体が収縮して流れを作る。各部分が自律的に脈打っている。
管の中を原形質が多く流れると、管が太くなる。太い管はさらに多くの流れを集める。逆に、流れが少ない管は細くなって消える。この「使えば太る、使わなければ消える」という単純なルールが、ネットワーク全体を自動的に刈り込む。
2007年にTeroらが発表した数学モデルでは、各管の導電率(太さ)が流量に応じて変化するという方程式でこの現象を再現した。驚くべきことに、このモデルはシュタイナー木問題※1に近い解を出す。
粘菌は走化性※2を持つ。餌が出す化学物質の濃度が高い方向に伸び、嫌いな物質(塩や光)からは逃げる。これが探索の方向性を決める。
走化性は粘菌に限った能力ではない。細菌も免疫細胞も同じ仕組みを使う。だが粘菌が特異なのは、走化性と管状ネットワークとフィードバックを組み合わせることで、個々の部分に「全体の地図」がなくても、全体として最適なルートが形成される点だ。
3つの要素はどれも「局所的」だ。どの管も、自分を流れる量しか知らない。それなのに全体として最短経路が浮かび上がる——これを創発と呼ぶ。
ここで立ち止まって考えたい。人間は、これを「知性」と呼んでいいのだろうか。もし「知性」を「脳を使って考えること」と定義するなら、粘菌は知的ではない。だが「環境から情報を取り込み、処理し、最適な行動に変換すること」と定義するなら、粘菌はそれをやっている。
迷路を解けるだけでも十分に衝撃的だが、2016年にフランスのトゥールーズ大学のオードリー・デュスチュールAudrey Dussutour
フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究者。トゥールーズ大学の動物認知研究センター所属。粘菌の学習と記憶に関する先駆的な研究で知られる。らが発表した研究は、さらに踏み込んだ。粘菌が馴化馴化(じゅんか・habituation)
同じ刺激を繰り返し受けると、反応が弱まっていく現象。学習の最も基本的な形態とされる。熱いお風呂に入ったとき、最初は熱くても次第に慣れるのも一種の馴化。——学習の最も基本的な形——ができることを示したのだ。
実験はこうだった。粘菌が好まないキニーネ(苦い物質)で覆った橋の先に餌を置く。初日、粘菌は橋を渡るのを嫌がり、到達に時間がかかる。ところが5日間繰り返すと、粘菌はキニーネを無視して素早く橋を渡るようになった。「害がない」ことを学んだのだ。
| 条件 | 初日の反応 | 5日目の反応 | 刺激を除いて2日後 |
|---|---|---|---|
| キニーネ群 | 橋を渡るのに長時間 | 素早く渡る(馴化) | 再び遅くなる(自発的回復) |
| カフェイン群 | 橋を渡るのに長時間 | 素早く渡る(馴化) | 再び遅くなる(自発的回復) |
| 対照群 | 素早く渡る | 素早く渡る | 素早く渡る |
しかも、キニーネに慣れた粘菌は、カフェインにはまだ嫌がる。つまり「何にでも鈍くなった」のではなく、特定の物質に対してだけ慣れた。これは感覚の疲労や適応ではなく、刺激特異的な行動変化——学習の定義そのものだ。
さらに驚くべき実験が続いた。同じ年、デュスチュールのチームは「学習した粘菌」と「学習していない粘菌」を融合させた。粘菌は同じ種のもの同士が接触すると自然に合体する。3時間後、融合した個体は——元の「学習していない」方も含めて——キニーネを恐れなくなっていた。学習の「転送」だ。融合部に太い管が形成され、それが情報伝達の経路になっていたと考えられている。
"We were astonished to find out that the slime mold could learn without a brain or nervous system!"
粘菌が脳も神経系もなしに学習できるとわかったときは、本当に驚いた。
— Audrey Dussutour(CNRS)
粘菌と人間のつきあいは古い。赤い点はこのトピックの転換点を示す。
19世紀
「変形菌」としての分類
粘菌はキノコの仲間と見なされ、菌類として研究されていた。日本では南方熊楠が変形菌の採集と分類に生涯を捧げた。
1970年代
細胞運動の研究モデルとして
Physarumの原形質流動が筋肉の収縮と分子レベルで類似していることが注目され、細胞生物学の実験材料として広く使われ始めた。
2000
迷路を解く——Nature論文
中垣俊之ら、粘菌が迷路の最短経路を見つけることを実証。「脳なき知性」という概念が科学の表舞台に登場した。
2008
環境変化を「予測」する
犀草亮らが、一定間隔で寒冷刺激を与えられた粘菌が、刺激のタイミングを予測して事前に動きを変えることを発表。
2010
東京の鉄道網を再現——Science論文
Teroらが粘菌のネットワーク形成を東京の鉄道網と比較。効率性・耐障害性・コストの3点で同等の性能を示した。イグノーベル賞(交通計画部門)受賞。
2016
学習と記憶の転送
Boisseauら(トゥールーズ大学)が馴化を実証。さらにVogel & Dussutourが、学習した個体から学習していない個体への「知識の転送」を融合実験で示した。
2022
NHK NOVAドキュメンタリー
PBS/NOVA「Secret Mind of Slime」放映。中垣、デュスチュールら主要研究者が出演し、粘菌の認知能力が一般に広く知られるきっかけになった。
粘菌は私たちに、居心地の悪い問いを突きつける。
最短経路を見つけること、ネットワークを最適化すること、過去の経験から行動を変えること——これらを「知性」と呼ぶかどうかは、結局のところ定義の問題だ。だが定義の問題だと片付けるのは簡単すぎる。なぜなら、私たちが「知性」という言葉にどんな意味を込めるかは、「自分たちは特別な存在だ」という感覚と深く結びついているからだ。
脳を持つ生物だけが「考える」ことができる。この前提は、長い間疑われることがなかった。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言ったが、粘菌は「思う」のだろうか。
いや、「思う」とは言えないだろう。粘菌には意識がない(おそらく)。主観的な体験もない(おそらく)。だが、情報を処理し、環境に適応し、問題を解く。これを「知性」のカテゴリから排除してしまうと、知性という概念は「脳を持つ動物の特権」になる。それは事実の記述ではなく、定義の恣意的な制限だ。
私はこう思う。粘菌が「知的」かどうかより、粘菌を前にして自分たちの知性をどう見るかの方が、ずっと面白い問いだ。人間の脳は860億のニューロンを持つが、やっていることの本質は粘菌と同じかもしれない——局所的なルールの集積から、全体の秩序を創発させること。違いは規模と複雑さであって、原理ではないのかもしれない。
いや——そう断言するのは早い。「規模と複雑さの違いしかない」と言い切ってしまうと、意識や自由意志の問題が全部消えてしまう。消えるべきではない。ただ、粘菌を見ていると、知性の「下限」がどこにあるのか、誰にもわからないという事実だけは、はっきり浮かび上がってくる。
大雨のあと、ロンドンのガナースバリー・トライアングル自然保護区のオーク材の上で広がる粘菌。枝分かれする管の構造は鉄道路線図に似ている(撮影: Ian Alexander, CC BY-SA 4.0)
『風の谷のナウシカ』(1984)
宮崎駿の代表作に登場する「腐海」の菌類は、粘菌から着想を得ている。汚染された世界を浄化する巨大な菌類のネットワーク——人間が「害」と見なすものが、実は環境全体の「最適化」を担っているという構図は、粘菌の知性と重なる。
The Creeping Garden(2014年・ドキュメンタリー映画)
粘菌の研究者やアーティストを追ったドキュメンタリー。70年代SFの映像手法を引用し、粘菌のタイムラプス映像を「知性を持った生命体」として撮影した。音楽はソニック・ユースのジム・オルーク。
Heather Barnettのアート作品(2010年代〜)
ロンドンのアーティストが粘菌と「共同制作」するアートプロジェクト。迷路やスペリングテストの中で粘菌が作るパターンを作品として展示している。「作者は人間か粘菌か」という問いを含む。
NOVA「Secret Mind of Slime」(2022年)
PBSの科学ドキュメンタリー。中垣、デュスチュール、ラティらの研究を一般向けに紹介し、「脳なき認知」の概念を広く知らしめた。
Maze-solving by an amoeboid organism
わずか1ページの論文だが、この分野の出発点。実験の写真を見ると、迷路の行き止まりから粘菌が撤退していく過程が手に取るようにわかる。
Rules for Biologically Inspired Adaptive Network Design
東京の鉄道網と粘菌ネットワークを定量比較した論文。効率性・耐障害性・コストの数値が出ているので、「似ている」が感覚的な話ではないことがわかる。
Habituation in non-neural organisms: evidence from slime moulds
粘菌が馴化(学習の最も基本的な形態)を示すことを実証した論文。キニーネとカフェインで刺激特異性まで確認している点が説得力を持つ。「学習に脳は不要か」という問いを考えるなら、まずこの論文を読むべきだ。
Thoughts from the forest floor: a review of cognition in the slime mould Physarum polycephalum
粘菌の認知能力に関する研究をまとめた最新の総説。感覚、意思決定、記憶、学習のすべてについて現在の知見を俯瞰でき、今この分野がどこまで来ているかがわかる。